日本のお家芸 といえる 長丁場の研究の 代表である。
日本の近代土木の礎を築いた 清きエンジニア
広井 勇 (ひろい いさみ) (1862年~1928年)
札幌農学校(現・北海道大学) (2期生) 時代の同級生には、
内村鑑三、新渡戸稲造らがいる。
が、彼らほどには知られていない。
でも、その功績は多大である。クラーク博士の後を継いだ米国土木技師
ウイリアム・ホイラーに学んだ。
防波堤や橋梁で実績を残す。
1897年(明治30年) 小樽港の北防波堤の建設にとりかかる。
国産のコンクリートの生産がはじまったばかりであり、横浜港、佐世保港
で採用されたものは亀裂事故が絶えなかった。
彼は、外海の荒波に耐えるコンクリートブロックづくりに奔走する。
11年の歳月をかけた。
この 日本初のコンクリート製長大防波堤は、 100年を経過した今も
当時のまま使われている。
2000年の土木学会では、「日本土木史の驚異」と称賛された。
彼は、学問の基礎を現場におき、「知識人とは、ものを知ることより造る人
である」、「現場のない学問は学問ではない」と語り、
「生きている限り働く」ことをモットーに常に実践性を重視した人であった。
小樽北防波堤では、コンクリートの供試体が6万個以上つくられ、今日もまだ
その一部が海中に残っており、コンクリートの耐久性試験の強度試験が
なんと継続されている。 博士の意志を受け継いで。
100年を少し過ぎたが、 これを 100年試験 と呼んでいる。
坂本竜馬 1836年(天保6年) ~ 1867年(慶応3年)
広井 勇 1862年(文久2年) ~ 1928年(昭和3年)
夏目漱石 1867年(慶応3年) ~ 1916年(大正5年)
竜馬と5年重なり、漱石より先に生まれ、漱石より長生きした
広井勇 、
100年先を考え、供試体を残し 後のものに託した。
100年以上も、今も継続し コンクリート強度試験データを とり続けているのだ。
彼は、土佐藩出身である。
御納戸役を勤める広井喜十郎の長男として生まれるが、
9才で父を亡くし、11才で叔父を頼り上京。
のち、官費生として、札幌農学校に入学。
小樽港を見下ろす運河公園に胸像が建つ。